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白無地の暖簾をくぐり、ちょいと力を入れる感じで木枠のガラス引き戸を開けると、器が積まれた正面カウンター越しの厨房から「いらっしゃいませ」の声が耳に届く。白い壁にはこれも品書きや暦の類がなく小鏡の他は無地の世界だ。板張りの床に素朴な木の体温が伝わる二人用の卓と椅子が四組。この簡素な佇まいが、運ばれる料理に通う温かさを際立たせる。 蕎麦焼酎「珠玉」の蕎麦湯割りを注文すると、突き出しに「揚げそばチップ」なるものが出る。平たく延ばした蕎麦生地を四角に切りカリッと揚げて塩と黒胡椒を散らした香ばしさは格別。杯を傾ければ、蕎麦焼酎「珠玉」のキリッと冴えた辛さを包むような、とろんと丸い蕎麦湯の舌触りがたまらない。蕎麦湯が入った赤い取っ手の急須の可愛らしさにも愛着がわく。ほどなく「揚げじゃこおろし」が盛られた器が置かれる。シャキ、シャキ、シャキと奥歯でじゃこを噛みつぶしつつ、その小気味よい感触を、とろりとした大根おろしの舌ざわりがやわらげる。さらにその大根の辛味が強く響けば、さながら味覚の三重奏の如しだ。 さて「たぐる膳」である。もりそばに小鉢数品、季節の天ぷらなぞが並んだ膳は、華美ではないが一つひとつが実直に主張し、食すにつれて満足感がしみわたる。それは、正にこの店の端正なしつらえに通ずるのだと気づく。この日の天ぷらは「わかさぎに大葉」。わかさぎは、カリリとした衣のなかにふくよかな白身が、これもしっとりとした調和し、思わず口元がほころぶ。 「里芋饅頭蟹あんかけ」の妙味もまた格別。里芋の味が活きるもっちりとした饅頭に蟹ならではの濃厚な滋味が絶妙に絡み合い、とろけ合った美味しさが、口のなかでしみじみと広がる。そして、「もりそば」。手打ちの二八蕎麦は見るからに艶やかで、品のよいそばつゆをつけて口に運べば、のど越しは冴え、舌をなめらかに滑る味わいは、目を細めるように爽やかで清冽だ。 料理とは、濃と淡など様々な味わいが織りなす饗宴であると思わせる品々は、口のなかで生まれる硬軟の歯ざわり、舌ざわりとの出会いも趣深い。だからこそ、また次も、と期待が高まるのだ。 最後に、この八席に凝縮された空間が、これらの料理にまたとない味付けを施していることを特筆したい。それは、店内の「音」も贅沢なご馳走の一つだからである。ただ、単に静寂がよいのではない。東京・新宿「中嶋」の店主の大声はこれまた美味である。 我が家から十五分、いつもワクワクと歩いて出かけるそのお蕎麦屋さんは神奈川県大和市、小田急線「南林間」駅から程なくの、繁華街と少し外れた落ち着いた街並みに佇む。 「TAGURU」、飾らず、おだやかに、舌を遊ばせる店。 #
by present-inc
| 2009-02-14 01:17
| 料理
無常とは、世の中の一切のものは常に生滅流転し移り変わるため永遠不変な存在はない、とする仏教の教えである。確かに人は老い、やがて身まかり、美しい物も必ず朽ち、植物は枯れゆく。
だからこそ人の一生には、時に理不尽な宿命が待ち受け、歓喜の一瞬が永遠に続くことはない。 つゆのよは つゆのよながら さりながら フィリップ・フォレストは、小林一茶のこの句を主旋律に、一茶を、夏目漱石を、そして長崎原爆を印画紙に焼き付けた山端庸介の人生を、追い続ける。さらにこの作家自身のさすらいの旅を。 つゆのよ(露の世)とは、儚い世のことだ。 確かに人生は時に大切な何ものかを空しく消し去り、微笑と虚無は常に隣り合わせに位置する。 次々と生まれる子が、次々に死に絶え、愛する妻さえ一人め、二人めとこの世を去るという運命を背負わされた一茶。それは、籾殻の散らばった乾いた土の上で跳ねる一羽の雀にさえ温かな眼差しを注いだ、純朴な俳人という想像を見事に破壊する。 さりながら、つまり、しかしながら。 一茶はそこに、「この世が儚いことは知っていた。しかしながら、なぜこれほどまでに愛する者の命を奪われなければならないのか」という悲痛な心の叫びをこめる。そこからイマジネーションは、永遠に疎外感から抜け出せずさ迷った夏目漱石の人生へと想像の旅先を変える。 則天去私。漱石が有名にしたこの四文字の言葉の裏には、自らを無にしてしまいたいほどの心の苦痛があったと、フォレストは追体験する。そして山端庸介の描写では、長崎の運命そのものが目を背けたくなるほど痛々しい筆致で目前に晒される。 そこにあるのは、三者とそして被爆した町を覆い尽くす、痛切な寂莫感と、荒涼たる心の風景である。 真っ直ぐに力強く生きられる人間もいるかもしれない。しかし、数多くの市井の人々は、迷いさすらいため息を重ねながら人生を全うしていく。そして真っ直ぐな人生にも、いつか不可解な迷路を通る時期が訪れるのだ。 いまこの胸に去来する、夥しい数の悲しみと悔恨と恥辱を、取るに足らぬちっぽけな心の傷と認めつつ、この言葉を未来への橋渡しに変えたい。 さりながら しかしながら、人間は負けない。 #
by present-inc
| 2009-02-07 14:49
| 書籍
ポール・セザンヌの静物画は、まるで五線譜が描かれているみたい。 そんな風にささやきたくなるほど、テーブルのうえで可愛らしく踊るリンゴやナシやオレンジたちは、時にかろやかでウキウキするリズムを心に運んでくる。 たとえば「リンゴとオレンジ」。白布にころころと並べられた果物たちの楽しそうな姿を見れば、あの晴れやかで軽快なパッフェルベルの「カノン」のリズムが聞こえてきそう。 果物の表面を彩る赤や黄色や緑色は、全音符、2分音符、4分音符の役目、窓から差し込む光を反射する時にやわらかく、硬く変わるハイライトは、クレッシェンドやデクレッシェンドのパートか。 そんな風に果物たちを見つめていると、セザンヌが、絵画で音楽の心地よさを奏でる指揮者のような感じがしてくるから不思議。 まるでダンスを踊るように、お尻やヘタの角度をあちこちに変えながらキュートな肢体を披露する「リンゴ」。その果実の一つ一つは、まるで意思が宿るかのように腰をくねらせ、寝そべり、あるいは嬌声をあげながら両手を挙げる。そのとき、そこから聞こえてくるのは「バッド・デイ」。明るいボサノバのリズムを、小ぶりなテーブルに広げられた白布の手前にある狭い、狭い小宇宙で踊るリンゴたちが響かせる。 音楽は「ふたつの梨」の、寄り添った梨からも聞こえてくる。ちょこんと並んで置かれた“二つの梨”を描く筆のタッチの変化が、デリケートなグルーヴ感を奏でるのだ。 ポール・セザンヌの絵画から聞こえる音楽が、潔癖症のセザンヌから生まれるかどうかなんて関係ない。動かぬ静物画がつまびいていくリズムに、耳をすませればいいだけ。 果物が五線譜のうえの音符と化す、瞬間のときめきのなかで。 #
by present-inc
| 2009-02-03 00:07
| 絵画
自らの誕生と引き換えに母を失うという運命が、女性と心を通い合わせることに臆病な青年を育てたのでしょうか。義姉・カリンの朝食への招待や、自分を慕うマーゴの誘惑を頑なに遠ざけるラースは、やがてそんな自らの性格を変える手がかりを探すかのように、一人の「彼女」をそばにおきます。その名はビアンカ。 その「彼女」が「解剖学的に見ても」人間同様に造られた“リアルドール”であった事から周囲にさざ波が立ち始めます。しかしそれは、リアルドールをまるで生きている「彼女」のように扱う独身男を好奇の対象として見つめるお決まりの対応とは違いました。ビアンカを、まるでラースの本物の「彼女」のように扱う周りの人々の繊細な心配りや仕草を見つめるうち、お伽噺のようなそんな逆転現象にふんわりと引き込まれていきます。 テープの朗読を頼りに椅子に座ったビアンカに読み聞かせをさせたり、車椅子に座りバースデーパーティーにやってきたビアンカの手からお礼の言葉をささやきながらワインのボトルを受け取ったり。さらに、最初は「ついに弟も頭がおかしくなった」と慌てていた兄までが、ベッドで眠るビアンカの姿を見て安心した表情を浮かべる場面の、何ともやわらかなほほえましさ。 そこにあるのは、相手の気持ちを受け容れるという心の動きのまばゆさでした。しかし、その心を最もぽかぽかと温かく見せてくれたのは他ならぬラースだったのです。 オフィスのちょっとした諍いから、大切にしていた熊の人形にいたずらされテーブルに伏せるマーゴ。その彼女のもとへ、ためらいつつも静かに近寄ってきたラースが、そっと人形に人工呼吸を施し耳を当てて心臓の音を確かめるシーンの何という可愛いらしさ。それを見たマーゴは、愛するモノを共有してくれたラースの泉のように清らかな心を知るのです。きっとその時、熊の人形は、ラースにとってマーゴの大切な友人そのものだったのでしょう。 多かれ少なかれ人間は、人間でない何物かを生きる拠り所として生きている。そんな人間の性とラースの「彼女」はどこが違うの? 観る者はいつしかそんな単刀直入な問いを投げかけられながら、ラースの男としての成長物語をじっくりと見守ることになります。そして思いがけず気付いた生身の女性、マーゴへの恋愛感情の芽生えに戸惑いながら、ラースは、やがていままでの「彼女」ビアンカにゆっくりと“人間”としての別離を告げていきます。決してモノ=人形として捨て去るのではなく。まるで現代の童話のように閉じられるこのお話は、もちろん“お話”なのだけど、心にとても大切な波紋を投げかけてきます。 それは、人間全てが持つべき普遍的なモノへの思い、全てのモノに注がれている作り手の心を大切にする愛情なのだと、思わせてくれるのです。 #
by present-inc
| 2009-01-17 23:03
| 洋画
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