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その朝も、近くにあるミッション系の女子高生たちの笑い声で宇多は目が覚めた。宇多が住む中層マンションは彼女たちの通学路沿いにあり、時折その幸福感にあふれた声をアラーム代わりに利用していた。
女子高生の一群が遠ざかったとき、宇多は、背中に感じたひんやりとした空気の感触で、彼女がもうそこにいないことを知った。そして、なるべく平静を装って(そのとき自分の周りに他人の視線は皆無だったのだが)昨夜の出来事を早戻ししながら、少しふくらみのある掛け布団の中に手を伸ばした。すると、わずかな温かみとともに硬いカードのようなものが手に触れた。それは、彼女が使っていた革製の栞だった。 指先で栞をいじりながら、宇多はともかくベッドから体を起こし、冷蔵庫から彼女が好きだった宇和島産のみかんジュースを取り出して、厚めに切ったバゲットをオーブントースターに入れた。宇多は、ダイニングテーブルの上の彼女の置手紙を読む自分を想像していたが、自分宛のメッセージは何一つ残されていなかった。頭の中の早戻しは、数時間前に行われた彼女とのセックスを再生していた。しかし宇多は、彼女の体を歓ばせるために行われた自らの指先の技巧に特に致命的な過失を見出すことはできなかった。 やがてパンが焼き上がると、そこにハチミツを塗った。 そして新聞も雑誌もない部屋でハチミツの瓶の裏のラベルに視線を落とした。 「甘さというよりビターな味わいが心にじんわりと染み込む。人間はいつ孤独になるか分からないが、孤独に耐える姿こそ人間であると教えてくれる。そして、そのビターな味わいが際限なく快感に変わるのは、私たちが常に孤独を意識し、既に孤独を友人としているからかもしれない」。 それは、ハチミツの説明としては少し不似合な感じがしたが、宇多にとっては納得のいくものだった。 それから宇多はハチミツにバターをワンスプーン加えた。バターのパッケージには製法の説明があった。 「素材はすべて女のいない男のみで、姿を消し今はいない女と紡いだ物語は、ひと晩寝かせてじっくり風味を引き立たせた生クリームのように奥深い寂寥感を醸し出す。さらに、いつの間にか不思議な出来事が入り込む寓話めいた仕掛けが、良質の食塩のような隠し味になる」。 それは、バターの作り方というよりはどこかにある小説の評論の趣があった。宇多は、スマートフォンを取り出したが、そこには誰からのメールも残されていなかった。 残されていたのは革製の栞だけか、という独り言が小さな部屋に響いた。 バゲットを食べ終わると宇多は、コットンパンツに目の前に掛けられていたブルーのシャツをはおり、 いつも手にするバッグを肩にかけた。そこには、一冊の本が入れられていた。 「女のいない男たち」村上春樹著。 その多くは、女からの一方的な別れに始まり、女の残した心の風穴についての物語が陰影豊かに語られる。 宇多は、本の1ページ目に、残されていた栞を入れてドアを開けた。ともかく女とよく行った駅の向こうのカフェに行くことにした。宇多にいまできることは、それしかなかった。 #
by present-inc
| 2014-08-17 10:34
| 書籍
チームか選手か、どちらか応援したいからサッカースタジアムに行く。
だからピンチではヒヤヒヤ、チャンスならもちろん興奮。 ハーフタイムを除いて90分、サッカーを観る心は動き続ける。 ホームでもビジターでも、その心の動きにエネルギーを注ぐのが、 サポーターの姿だ。だから私は、サポーターも応援する。 サポーターのチャントは、クリエイティブそのもの。 きちっと統制がとれた、一つの様式美だ。 私はそこに、愛するチームへの敬意と愛を感じる。 ヒガシッ、オレ! 試合開始前の練習時間、選手個々への声援が始まる。 イワシタ、オレ! 練習を中断して、選手が手を挙げて応える。 フジハル、オレ! サポーターと選手が観客席とピッチを超えてつながる。 それは今日、必ず試合に出るとは限らない、サブスティテューツの 選手も同じだ。チーム全員と、そして我々は共に青と黒の戦士たち、 その気持ちで一つになる。 コイントスが終わって、ホイッスルが吹かれる。さあ、試合開始だ。 ガンバガンバ、大阪ガンバ! 手拍子と炸裂する声が重なり小気味よく空気が震える。 ガンバ フォルツァアレー いったれ いったれー♪ サッカーの試合には流れがある。攻め続ける時間帯もあれば、攻め込まれる時間帯もある。チャントは、選手と共に、あるときは攻めに勢いを注ぎ、ときに劣勢の流れに抗う。 そして、 オー ミアガーンバ オー ミアガーンバ オー ミアガーンバ♪ 「俺のガンバ」と歌うことで、選手との一体感は自然に高まる。 ガンバ ガンバ もっといったれー♪ ガンバ ガンバ もっといったれー♪ 得点がもたらす興奮を、さらにさらに高めるのは、もちろんチャントだ。 しかし、サッカーという競技は、得点が繰り返されるバレーボールや バスケとは違う。ひたすらゲットゴールを願って、願って、 願いが届かぬ時間が圧倒的に多くを占めるのだ。 でも、だからこそ、願いが届くことを信じてチャントを続ける サポーターの姿は美しく、その声は私の胸を熱くする。 真剣勝負だから失点もある。打ちのめされる試合もある。 しかし、サポーターの姿は、まさにそのときこそが美しく凛々しい。 自陣のネットが揺れた瞬間、やはりこぼれる悲痛なため息の後、 すぐまたチャントは始まる。 ガンバ大阪 オレ! さあ追いつけ! まだまだここからだ、と叫ぶ。 「あきらめない」は、“なでしこ”のキーワード。 しかし、そもそもサポーターたちのチャントは、「あきらめない」が基本だ。 「ええで、ええで!」と叫ぶときもあれば、 「何しとんねん、お前らっ!」と怒りを露わにする野次が飛ぶこともある。 しかしそこには、愛するチームの試合を見続けてきた記憶の情報データに支えられた、確かな批評眼がある。多くのサポーターは 監督より長く、チームの試合を見続けている。 だからサポーターは選手を育てる。だから野次を聞くのも楽しい。 戦士達よ俺等の 声が聞こえるだろ 俺等はいつものように 今日もここにいるぜ♪ 選手との一体感の確認。しかし同時にそこには、 「お前らっ、聞こえとんのか!」の意思表示がある。 もちろん、この私だって、歌えるチャントは歌うし、手拍子も声援も送る。 しかし、私のサッカー観戦の喜びは、1つのボールを追って 屈強な身体が弾けるピッチの戦いと共に、サポーターの姿を追い、 その声を聞き、私なりの力で、その様式美に加わる体験にもあるのだ。 ベールマレ! 私がサポーターでない理由の一つは、好きなサッカーチームが5つもあること。だから1チームを熱狂的に応援するサポーターとは そもそも一緒にはなれない人種なのだ。 BMWで、共に戦う、俺らは歌うのさ、湘南のために♪ だから私は、BMWではこのチャントを歌う。もちろんそれは邪道かもしれない。 でも、こんなJリーグとの向き合い方があってもいいじゃないか。 そのBMWで、湘南ベルマーレとファジアーノ岡山のJ2の試合を観た。 600kmの距離を超えてやって来た、その日の岡山のサポーターは、 わずか40人弱。しかし、 スタジアムの反対側からわずかに届くその健気なチャントは、 ホームで声援を送っていた私の胸を、じんわりと温かくさせた。 試合はもちろん、ファンのチームを100%応援する。100%だ。しかし、 同時に対戦相手のサポーターのチャントにも惹かれる。 試合開始の前に、ホームの観客がビジターのサポーターに拍手を送るその瞬間も好きだ。それは、サポーターに対するリスペクト。Jリーグには、すべてのサポーターの存在を認める文化があるのだ。 サポーター席には、ピッチを観ることなく、ひたすら サポーターを導くサポーターがいる。その純粋さに、 迫力あるチャントを創る情熱を感じずにいられない。そしてそこから生まれる よどみない声と手拍子の様式美は、間違いなく観賞に値する。 そして、ともに参加する喜びで私を満たしてくれる。 だから許してほしい。5つのチームを応援することを。そして、 すべてのチームのサポーターを応援することを。 〔『サポーター』に関する記述について〕 1970年代から欧州を中心に目立ち始めたフーリガンの騒動により、Jリーグ20周年を迎えた現在でも「サポーターは危険」という印象が一部に残ることは否定できない。そしてそれがスタジアム動員の障害になっている可能性も指摘されてきた(そんな方は、まず一度、スタジアムに来てほしいのだが)。 また一方で「サポーター」と「ファン」との垣根を取り除くことが本来の姿、という意見もある。もちろんそれが観客動員増への一つの理想かもしれない。しかし、実際にスタジアムに出かけてみると、私のように好きなチームが5チームもあって、チャントもまともに歌えない程度のサッカー好きには、自身を「サポーター」などと言える気持ちには絶対になれない。それだけ「サポーター」という存在は特別で、またそれこそがスタジアム観戦を面白くしているといつも実感する。だからこそ、その部分を書きたかった。 まぎれもない一サッカー「ファン」として。 私は静岡県中部出身なので清水エスパルス、中西部の神奈川県民なので湘南ベルマーレ、自宅近くなのでSC相模原とFC町田ゼルビア、そしてヤトニスタの妻に感化されてガンバ大阪をそれぞれ応援しています。 #
by present-inc
| 2014-05-22 14:49
| スポーツ
潮風に吹かれながら江ノ島大橋を歩いて江の島に渡り、白くまぶしい灯台に視線を向けつつ305号を海沿いに歩くと、並ぶヨットのマストが視界に入る。やがて見える三角の屋根が「江の島ヨットハーバーヨットハウス」だ。1964年、東京オリンピックのヨット競技場として整備された建物で、2階にはオリンピックの歴史を綴った展示も見られる。
その2階にある「cafe Prime」のメニューを開いて、パスタの欄の一番上にあるのが、「サザエとしらすの和風パスタ」だ。 まばゆいばかりに“しらす”が盛られたパスタを掬って口に運ぶと、塩味ベースにふんだんに仕込まれたサザエの風味がじゅわっと広がり、しらすの柔らかく弾力ある食感と味わい、さらに中に隠れた海草が二重三重に“磯の香り”で舌を恍惚に似た感覚に導く。それは、かみしめるほどに味覚を越えて、脳神経にまで広がる錯覚を覚えるほどだ。鼻腔を捉える香りも含め、あえて言えばそれは「磯臭い」に近い強さなのだが、だからこそ、これこそが“磯の香り”なのだと実感する。しっかりとサザエの風味がしみ込んだ歯ごたえのある麺も、武骨にその磯臭さを引き立てて裏切らない。さらに目の前は湘南の海とヨットの帆が並ぶ絶景。これ以上、天然の磯の醍醐味を味わう舞台設定があるだろうか。 確実に圧倒されるこの“磯の香り”は、恐らく好き嫌いが分かれるほど強烈な個性を示すが、「磯の香り豊か」と書かれた凡百のメニューを超然と越えた存在感は、たまらなく磯の、いや深遠な海の恵みの強さで私の舌をとりこにした。 残念なことに、「cafe Prime」は2014年5月末日で「江の島ヨットハーバーヨットハウス」の建替えのため閉店する。片瀬に開くという新たな店の名も、5月10日に訊ねた時点では決まっておらず、このパスタが復活するかどうかは訊かなかった。しかし、もし、もう二度と味わえないのならば、間違いなく伝説になるパスタ。そして、伝説にするにはあまりに惜しい、“磯の香り”という言葉の概念を、人間の味覚を通して教えてくれるパスタであると断言したい。 #
by present-inc
| 2014-05-11 14:22
| 料理
薀蓄のある話は酒を旨くする。
歳月を濃く染み込ませた渋みのあるカウンターで、なめらかな口当たりのバーボンで喉を湿らせながら話すとき、そこに脳が食らいつくような話題があれば、まさに快楽の極みだ。 沢木耕太郎著「バーボン・ストリート」は別に酒飲みの話ではない。「バーボンとも、ストリートとも関係ないから、バーボン・ストリート」とは、あとがきで書かれた著者自身の言葉である。しかし、猛禽類の「鷲」ではなく老練なプロスポーツ選手の一人称として使われる「ワシ」について書かれた「奇妙なワシ」に始まる15編のエッセイは、どれもがバーボンウイスキーを傾けながら聞いたら旨く飲めそうな薀蓄と人生の機微に溢れた話ばかりなのだ。そしてその15編の最後に「トウモロコシ畑からの贈物」が配された構成が、心憎いアクセントをこのエッセイ集に与える。 このタイトルは、フロリダのタンパに住む元カレッジ・フットボールの選手という米国男が言った「トウモロコシ畑からの贈物だもんな」という一言から付けられている。もちろん、その男の手には(トウモロコシを主原料とする)バーボンが入ったグラスが握られていたのだが、このエッセイだけには、沢木耕太郎の酒遍歴をはじめ、そうしたバーボンにまつわる逸話が濃密に込められているのだ。 しかし、この「バーボン・ストリート」というエッセイ集は、あくまで「バーボンとも、ストリートとも関係ない」のだが、この最後のエッセイで、半ばふざけたように「なっ、バーボン・ストリートだろ?」と言いながら、静かな含み笑い(笑顔ではなく)を浮かべる著者が目に浮かぶのである。そしてそう思わせる、この人を食ったようなタイトルが、まさに旨いバーボンを飲みながら話を聞く、薄暗いバーのカウンターにぴったりの無頼な空気の仕掛け役となっているのだ。 だからこそ最後のこのエッセイを読み終えたとき読者は、この「バーボンとも、ストリートとも関係ない」エッセイ集のページ全体から、甘いトウモロコシの匂いが立ち上がるような錯覚を覚えるに違いない。そうした雰囲気を醸しだす源こそ、沢木耕太郎の芳醇とも言える筆力と、焦げた樽の色と匂いが移ったかのような余韻のあるお話の中身なのである。 #
by present-inc
| 2012-06-10 10:51
| 書籍
本作は男ではなく「女」の物語である。
ギラギラした野望を瞳に湛えた孤児・ジュリアンが、アルジェの町からパリの政界へと駆け上る表のストーリーの裏に、脈々と流れる「女」の無垢な愛の希求が、男の野望すら砕く展開に心揺さぶられた。 パリの表舞台を突き進んでも、常にアルジェ時代のすさんだ過去を足枷に“悪党”としての闇を失わないジュリアン。霧矢大夢が陰影深く乗り移らせたこの男の妖しさに目を奪われつつも、なお観る者の心をステージに縛り続けるのは、ひたすら慕い続ける「女」の心なのだ。 トップ娘役・蒼乃夕妃が演じるのはサビーヌ。一途という言葉そのものを体現する彼女は、パリに旅立つジュリアンに「あなたの夢が叶うのは私もうれしい」と悲しみの涙を隠して微笑みをつくり、パリのナイトクラブでは「あたしのような女が近づけば、あなたが傷つく」と、いまにもその胸に飛び込みたい愛の炎を必死に打ち消す。そうした抑えに抑えた愛情表現が、物語の底流を絶えることなく流れ続けるのだ。 一方、むしろそのジュリアンを傷つけることで自らの愛を表現し続けたのは、エリザベート。悪党時代の彼の悪行をほのめかし鼻にもかけない素振りをし続けながら、ついに乱れた心の内を自ら明らかにする場面では、女の弱さと哀しみを痛いほど塗り重ねる。 ジュリアンの悪党ぶりにただ一人翻弄されるのは、アナ・ベル。偽りの恋愛劇のなかで、この盲目の美女は、愛の虚実の境目までも見失ってしまう。頂点に上りつめた愛の炎が突然消え、堕ちていく様は思わず目をつぶってしまうほど劇的だ。 アルジェの「男」を触媒に、バラバラにつながる三人の「女」との悲恋物語は、幾本もの哀しみの糸を濡れるように色鮮やかに紡ぎだし、深い凹凸が際立つ織物の如く、色濃い感情も露わに収れんしていく。 狂おしいばかりの女心の、聞こえぬ悲鳴を聞きながら観続けた。 #
by present-inc
| 2011-10-14 00:37
| 舞台
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