本作は男ではなく「女」の物語である。ギラギラした野望を瞳に湛えた孤児・ジュリアンが、アルジェの町からパリの政界へと駆け上る表のストーリーの裏に、脈々と流れる「女」の無垢な愛の希求が、男の野望すら砕く展開に心揺さぶられた。 パリの表舞台を突き進んでも、常にアルジェ時代のすさんだ過去を足枷に“悪党”としての闇を失わないジュリアン。霧矢大夢が陰影深く乗り移らせたこの男の妖しさに目を奪われつつも、なお観る者の心をステージに縛り続けるのは、ひたすら慕い続ける「女」の心なのだ。 トップ娘役・蒼乃夕妃が演じるのはサビーヌ。一途という言葉そのものを体現する彼女は、パリに旅立つジュリアンに「あなたの夢が叶うのは私もうれしい」と悲しみの涙を隠して微笑みをつくり、パリのナイトクラブでは「あたしのような女が近づけば、あなたが傷つく」と、いまにもその胸に飛び込みたい愛の炎を必死に打ち消す。そうした抑えに抑えた愛情表現が、物語の底流を絶えることなく流れ続けるのだ。 一方、むしろそのジュリアンを傷つけることで自らの愛を表現し続けたのは、エリザベート。悪党時代の彼の悪行をほのめかし鼻にもかけない素振りをし続けながら、ついに乱れた心の内を自ら明らかにする場面では、女の弱さと哀しみを痛いほど塗り重ねる。 ジュリアンの悪党ぶりにただ一人翻弄されるのは、アナ・ベル。偽りの恋愛劇のなかで、この盲目の美女は、愛の虚実の境目までも見失ってしまう。頂点に上りつめた愛の炎が突然消え、堕ちていく様は思わず目をつぶってしまうほど劇的だ。 アルジェの「男」を触媒に、バラバラにつながる三人の「女」との悲恋物語は、幾本もの哀しみの糸を濡れるように色鮮やかに紡ぎだし、深い凹凸が際立つ織物の如く、色濃い感情も露わに収れんしていく。 狂おしいばかりの女心の、聞こえぬ悲鳴を聞きながら観続けた。 ![]() 京都四条通りを八坂神社方向へ歩き、人一人がやっと通れる小路を左に折れると、並ぶ灯篭看板の薄ら明りのなかに浮かぶ「なか原」の文字が見つかる。扉を開けたすぐ前のカウンターに腰をおろせば、目の前は料理人の戦場、板場だ。舌で唸る前に愛でるのがその板場で繰り広げられる大将の舞いである。 秋は銀杏など、旬の揚げ物を指先で丁寧に揃えながら見つめる目がいい。芸術家の狂気とも、運動家の熱情とも異なる、料理人ならではの濃やかな真剣勝負の眼差しと、無駄のない足の運びにまずは心地よく酔う。 次は器で演じられる盛り付けの艶。刺身の小鉢をのぞけば、厚く端正に切り揃えられた魚介が、いま咲いたばかりの花びらの如く可愛らしき姿を見せ、口に広がる甘い旨みに目を細めるまで、五感を一篇の物語のようなつながりで堪能させる。 例えば炊き物の高野豆腐を口に運ぶ時、昆布出汁の効いた深いこくが、舌を包み込みながらしみ込む。震えるような、しかもとてつもなく優しい味覚が引き起こす“食べるという出来事”は、脳の奥底の記憶を呼び覚まし、やがて何世代も昔から確かに引き継がれてきた日本人としての源流に触れさせてくれる。私はその時、確かに時を遡るのだ。 板場と「客場」の空間が溶け込む瞬間と出合い、五感の全てをうっとりと包む京料理という芸術に魅入られ、そして瞼の裏にしっとりと涙がにじむような味に落ちる。 日本人であることを、思い出させる味。 京都祇園、なか原、味に陶酔できる至福。 戦国時代の1537年(天文6年)織田信長の叔父、織田与次郎信康により築かれた「犬山城」を中心に、江戸時代に尾張藩付家老であった成瀬氏の城下町として発展した犬山は、当時の面影深き街並をいまも濃やかに、しっとりと残す。城下町「犬山」の“小京都”らしさは、ゆったりと流れる木曽川の美しき水辺と、本町通り界隈の懐かしく情緒あるその佇まいに溶け込む。夏は、「日本ライン夏まつり納涼花火大会」の息をのむ天空の芸術に、日本八景に数えられる木曽川を下る「日本ライン下り」のはじける爽快、鵜匠の綱さばきも見事な「木曽川うかい」と、水辺の美しさよりいっそう際立つ。犬山城をはじめとする史跡探索を重ねつつ、浴衣姿でそぞろ歩く粋を心で愉しむ。 〔犬山城〕 国宝に指定された日本最古の天守閣のなかへ。 木曽川を見下ろす小高い丘に立つ「犬山城」は河畔からの姿麗しく、名鉄犬山線「犬山遊園」から「瑞泉寺」にお参りした後、木曽川沿いに川面をわたる風に吹かれつつ天守閣を眺めながら向かうのがおすすめ。 外装3層、内部4階、石垣内部にさらに2階分が設けられたこの城は、1935年(昭和10年)に国宝に指定されたが、その他の国宝3城(彦根城・姫路城・松本城)を含めた幾多の日本の城のなかで最古の城として名を馳せる。 戦国武将のよろい姿がいまにも浮かぶような当時そのままの木造の階段を、ギシギシと音をさせつつ1階ずつ見学しながら上る楽しみは格別。武具や屏風、古文書のある2階、日本の城が写真で紹介された3階を経て、4階「高欄の間」にある回廊から、御嶽山や岐阜城、名古屋駅上の「JRセントラルタワーズ」まで見渡せば、爽快の極みだ。 〔瑞泉寺〕 「三猿」も見られる室町の古刹。 「犬山遊園」駅東口を出て坂道を右手に歩くと、緑豊かな道の両脇にお寺が重なり合うように並ぶ。実は駅周辺にある五寺(龍泉院・輝東寺・臥龍寺・龍済寺・臨渓院)は、全て「瑞泉寺」の塔頭(たっちゅう/大寺院の敷地内にある小寺院や別坊)なのだが、時間に余裕があれば一つひとつ訪れてみるのも味わい深い。細める目の可愛いお地蔵様に、思わず手を合わせる。 さて目指す「瑞泉寺」は端正な庭園の向こうに1415年(応永22年)建立の大伽藍を見せる。手前の鐘楼の屋根の三方には左甚五郎作と伝えられる「見ざる、聞かざる、言わざる」三猿の彫刻が踊り、犬山城内の内田御門を移した山門もまた見事だ。 和泉屋小島醸造 徳川家にも愛された「荵苳酒」。 小京都・犬山の魅力の一つはもちろん、伝統美を伝えるその街並。犬山城から南へ伸びる本町通りを歩き、毎年4月の第1土・日曜に行われる「犬山祭」の車山(やま)を保管した「本町車山蔵」 を過ぎて、和雑貨の可愛らしいお店が見えてくる辺りは江戸時代の街割りを残すなかに当時そのままの家々が軒を連ね、着物姿で道行く人と袖触れ合う機会も少なくはない。 本町、新町、魚屋町と町名の来歴が書かれた「町名由来高札板」を眺めつつ練屋町に入ると、まるで時代劇から抜け出たような大店が現れるが、これぞ1597年(慶長2年)創業の「和泉屋小島醸造」。徳川家康が愛飲し、綱吉にも献上されたという「荵苳酒(にんとうしゅ)」は“尾張最古の銘酒”といわれ、葱苳(スイカズラ)を用いたリキュールとして、ウイスキーに甘味を加えた口当たりは400年の時代を超えて愛され続ける。 〔有楽苑〕 国宝の茶室と優雅な庭園美。 国宝は城だけにあらず。犬山城から歩いて東へ、郷瀬川を渡ると現存する国宝茶席三名席の一つ「如庵」を置く「有楽苑」が美しい静寂を湛える。織田信長の実弟で武将から茶人へと変身を遂げた織田有楽斎が、隠居の場として選んだ京都建仁寺の正法院。「如庵」は、その境内に1618年(元和4年)頃建てられ、東京そして大磯へと移築を経てこの地に移された茶室。 侘・寂とはかくの如しと思わせる「如庵」細部の意匠にも見とれるが、「有楽苑」の素晴らしさは、苑全体に精緻な手入れが行き届いた圧巻の和風美と言える。美しく整えられた緑の植栽と白石の対比、旧正伝院書院から元庵、弘庵へと続く和風建築の粋、縁先の手水鉢に仕掛けられた水琴窟(すいきんくつ)の風雅など、悠然と流れる時間が旅人を癒す。元庵で抹茶をいただけば、心はさらに清らかに澄む。 昔ながらの街並をひと足ずつ散策しつつ、国宝と出会い江戸の世界にひたる「小京都」犬山。日本の美に酔いしれる場所。 ※某共済組合の会員情報誌作成時(2008年5月)に書いた私のコピーを多少、書き換えました。 言葉にできなかった告白、成し遂げられなかった幸せ、届かなかったゴール。誰もが密かに抱いているだろう、そんな思いを引きずりだしたら、きっとモスラの幼中が吐く糸よりも長く続くに違いない。そんな言霊の塊のようなものを、安達クミが言った「人が死ぬ時にぽっかりとできる穴」と考えることはできないだろうか。「1Q84」BOOK3は、そんな「死んだ人にしか理解できないものごと」、その人の心の内に閉じ込められた曖昧で弱気で、あるいは時に狂気にも似た密やかな感情が生み出す言葉の澱に満ちている。青豆の、一途で強靭な天吾への愛を除いては。 僕にそんなことを考えさせたのは、いずれもこの物語のなかで重要な位置を占める2人の人物から生まれる「空気さなぎ」の存在だった。その2人の人物はいずれもBOOK3で多くの悔恨と拘りを抱えたままこの世を旅立っていく。それが恐らく「空気さなぎ」と化すのだ。そんな風に考えた時、この1Q84年の物語は2010年に生きる我々の生き方とシンクロし始める。 オープンなインターネット文化の奥底に澱んだ、無数のクローズされた「穴」がある。それは、フォア・ローゼスのオンザロックのそばにあるミックスナッツのように、人知れず消えていく存在でしかない。そしてそれらを知ることは、死んだ本人以外にはできない。二つに割れたコインの片方は残らないのだ。たとえそれが錯覚だったとしても。 そんなことを考えながら僕は、この2010年の梅雨入りの前、BOOK4のページを開いた。 禿でちんちくりんで福助頭と私たちが呼んでいた男は、神奈川県の郊外にある私鉄の各駅停車のみが停まるカフェでニューズウイーク日本版を広げていた。なぜ、よりにもよってこの男が、これから自分が勤めようとするスポーツクラブの人事担当者なのだろうかと、青豆は動かないルーレット盤に有り金を賭けた瞬間のような気持ちに襲われていた。もちろん最早、引き返すことはできない。男は、その蛇のような眼で既に彼女を凝視していた。 「牛河と言います。青豆さんだね。何か頼んで」 青豆は、カフェインレスのコーヒーを注文し、いつもより少し時間をかけて椅子に腰をおろした。しかし面接はあっけないほど型どおりに進み、牛河からは1Q84年を暗示させる特別なことは何も聞かれなかった。最後のその一言を除いては。 牛河は、その独特の風貌に似合わずスポーツクラブのスタッフたちの働きぶりについてユーモアを交えながら語った。したがって面談の後半は和やかな雰囲気に包まれていたといってよい。 一通りの確認を終え、レジを済ませた時だった。牛河は、出入口の自動ドアの方向を見つめながらこう言った。 「最近、公園の滑り台から夜空の月を見つめる夢を見るんですよ。しかも、月はいつもくっきりと2つあるんです」 果たして1Q84年の世界で命を失った人間は、1984年ではどのような暮らしを送るのか、それとも送らないのか。そして1Q84年にしか存在しなかった人間は、「別の世界」となる1984年にはやはり存在しないのだろうか。BOOK4ではそうした謎も、複雑に入り込んだ物語の成り行きが解き明かしてくれる。 さて、「この物語のなかで重要な位置を占める2人の人物」の内のもう一人、天吾の「父」と称される人物については、天吾が1Q84年の世界から持ち出してきた自著「NHKの集金人」のなかで次のように語られている。 私は、ピンクベージュに塗られたそのNHKの集金人の唇に見とれるまま玄関に迎え入れてしまった。 「キサヌキさんは、テレビを持っていらっしゃいますね」 「もってるけど、NHKは見ていないよ」 「キサヌキさん、テレビを見ている人は誰しも、NHKの受信料を払わねばなりません」 「でも、線路のポイントは切り替えられたんだ。一度止めた受信料はもう払えない」 「キサヌキさん、ずっと払っていた受信料をどうして払わなくなったのですか?」 「仕事を辞めなければいけなくなったからだよ」 それは事実だった。2ヶ月前のある日、キサヌキはそれまで勤めていたシステム開発の会社の社長から1ヶ月後の退職勧告を受けていた。 「つまりそれは、あなたの意思ではない、ということですね」 NHKの集金人は、唇の口角をむしろ少し上げながら続けた。 「キサヌキさん、ポイントは切り替えられます」 「切り替えられる?」 「そうです。キサヌキさん、あなたの意識を『払う』に集中すればいいんです。年間成績優秀者として表彰された私の先輩は『受信料を支払わせるという意思を明確に、しかも強く視聴者に伝えること』をこの仕事の基本として、新入社員の私に教えてくれました。」 天吾はこの後、先輩との同行で見た凄まじいばかりの受信料催促の模様を挿入するのだが、その方法は、幼い頃の天吾が見た「父」の姿そのものだった。 しかし、天吾がこの処女小説に込めた“意識による” 人生の切り替えというテーマは、村上ワールドには見つからない。そこにあるのは、これまで幾度となく語られてきた「喪失」という空虚な脱力感なのだ。「穴」はやはり取り返しのつかない失われた存在としてそこにある。 BOOK2で「男」はこう青豆に呟いている。 「1984年はもうどこにも存在しない。君にとっても、わたしにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」。 つまりBOOK4で青豆と天吾が暮らすのは決して1984年ではない。なぜなら、それはもう取り返しのつかない喪失された時間なのだから。 BOOK4のタイトルはもちろん「1Q84」だ。しかしそこには次の副題が付けられている。 <1985あるいは1Q85 1月-3月>。 透き通った、一見あっさりとした佇まいの煮物なのに、思いのほか舌を喜ばせる深みのある一品があります。それがこの小説です。頭から尾ひれまで、料理を通した主人公・倫子の想いが詰まって、身のしまった筋立てがじんわりとした味わいを残す。料理の段取り、所作の一つひとつに託される倫子の真心に人生の機微を感じるのは、その料理を饗される客の側にも様々な背景があるからでしょう。たとえばみぞれまじりの天候のなか、足先が冷たく凍ったまま入店したお店のひと匙のスープにたまらないおいしさを感じるように、お客様が求めているものを叶えるように出されるメニューそのものが、人と人、料理人と客の心の交流を感じさせる物語の組み立てが、あたかも心理劇を見ているかの如き濃くしっかりとした味付けを感じさせてくれます。 食堂を訪れる客の一人ひとりに差し出す料理のプロセスを丁寧にきめ細かく描いた、その描写の何とも言えぬ歯ざわりを楽しみながら、読者はここから、料理にまつわる言葉の濃密な旨みに心からひたるのです。 元気のない人には元気が出るフルコースを組み立て、あと一歩で恋が成就しそうな二人には、心が接近するかの如き想像を巡らせながら山海の幸をさばいていく、その倫子の姿は、言葉の代わりに思いを伝える料理ならではの価値を改めて思い起こさせてくれます。それは、もちろん言語機能を突然失ったという彼女の境遇もあるのでしょうが、だからこそ、常に語り手である倫子の内省的な思いが影の声の如く登場人物との交流を語ることとなり、その言葉は、音声として相手の耳に届く代わりに、そのまま料理という形で相手の胸に響いていくのです。 そんなたまらない場面のひと皿、ひと皿を味わっていくうち、この物語は、調理法こそが小説の言葉なのではないかという錯覚を起こさせるのです。つまり、目の前の相手を見つめながら素材と調理の方法を選ぶ過程が、単語の一つひとつ、しゃべり方のトーンや強弱を選ぶ、正に会話と同じ構造であるという発見に出会うのです。 ラストにかけて、ある特別な関係にある動物を倫子がさばき調理する場面があります。内臓の一部一部をそれぞれに合った別々の調理法で料理へと仕上げていく様は、まるで宗教儀礼のような神々しさを放ちます。目に入る言葉は「頭」「舌」「軟骨」「胃袋」「子袋」「肩ロースの肉の塊」など動物の単なる部位ばかりなのに、それぞれに施される調理法が、その動物自体への思慕と供される相手への祈りに支えられているからこそ、言葉たりえるのです。 祈りの儀式だからこそ、その料理の場面には血と肉すらもまばゆく溶け込んでいきます。宗教儀礼を神とのコミュニケーションとするなら、その場面で調理法は神さえにも届く究極の「言葉」として厳然と存在します。いや、ただの言葉の形式をとらないからこそ、神へ届く存在にまで昇華できたとさえ思わせてくれるのです。 単語を血と肉と魚と野菜に、文法を幾多の調味料や香辛料と調理器具を用いて進める調理法に逆になぞらえた時、私は自らの唇から放たれる「言葉」の重みに逆に気づかされるのです。 ![]()
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